最初に時計職人の治さん(仮名)の懐中時計の事をいろいろお話してもらいました。
二十年もの間、この手で無数の懐中時計を修復してきた。そして今なお、若い世代が安易に扱う時計を見るたびに、心が痛む。スマートフォンで時を確認する人々を見ていると、彼らは本当の「時」を理解していないのではないかと思えてならない。しかし、これも時代の流れ。今日は、懐中時計の真の価値について語らせていただこう。
懐中時計の誕生は、実に興味深い歴史的瞬間でした。15世紀末、ドイツのニュルンベルグで、ペーター・ヘンラインが最初の携帯時計を作り上げた時、それは単なる技術革新ではありませんでした。重りの代わりにゼンマイを使用するという発想は、当時としては驚くべき創意でした。当時のゼンマイは、現代のような均質な金属ではなく、手作業で打ち延ばした不均一な鋼材でした。その扱いこそが、職人の真価を問うものだったのです。
私の工房に置いてある17世紀初頭の懐中時計をご覧ください。「ナーンベルク・エッグ」と呼ばれる卵型のこの時計には、「タンバー」という特殊な調速機構が組み込まれています。現代人は一日15分の誤差など論外だと言うでしょうが、「正確な時間」という概念自体が、この時代から始まったのです。日の出と日の入りで一日を区切っていた時代に、機械式で時を刻むという試み自体が、革命的だったのです。
18世紀に入ると、時計技術は飛躍的な進歩を遂げます。ジョン・ハリソンの「H4」クロノメーターは、40年もの歳月をかけて完成された傑作です。彼が開発した「グラスバネ」は、現代の高級懐中時計に使われているバイメタル式温度補正機構の礎となりました。
19世紀、時計製造は大きな岐路を迎えます。アメリカのウォルサム社が始めた大量生産システムは、時計を一般大衆の手の届くものにしました。しかし、これにより失われたものも大きい。一本一本の時計に込められていた職人の精神、微調整の妙、そして何より、時計との対話が失われていったのです。
ただし、この時代には重要な進歩もありました。鉄道時計の誕生です。1853年のロックフォードの列車事故は、時計の精度が人命に直結することを示しました。以来、鉄道時計には厳格な基準が設けられ、文字盤の視認性から、温度変化への対応、衝撃吸収機構まで、すべてが細かく規定されました。
私の手元には、祖父から受け継いだ鉄道時計検査官の記録簿があります。毎週の精度検査、部品の状態確認、調整の記録。その緻密さは、現代の品質管理とは比べものになりません。一刻の狂いが人命を左右する重責を、当時の職人たちは誇りを持って全うしていたのです。
20世紀初頭、スイスの時計師たちは複雑機構の極みを追求しました。永久カレンダー、ミニッツリピーター、クロノグラフ。これらの機構を一つの時計に組み込むには、計り知れない技術と忍耐が必要でした。一つの歯車を削り出すのに数週間を要し、その精度は髪の毛の太さの百分の一にも満たない誤差で仕上げなければなりません。
現代の工具は確かに優れています。しかし、手作業での微調整には、機械では得られない魂が宿ります。私の師は言いました。「時計は生きている。その鼓動を感じ取れる者だけが、本当の時計師になれる」と。
今、私の作業台の上で静かに時を刻む懐中時計たち。その一つ一つが、時代の証人です。ゼンマイの張力を計算し尽くした職人、歯車の噛み合わせに生涯を捧げた技術者、エナメル文字盤に魂を込めた芸術家。彼らの情熱と執念が、この小さな空間に凝縮されているのです。
だからこそ、私は若い職人たちに伝え続けます。懐中時計は単なる機械ではない。これは人類の技術の進歩を物語る証であり、先人たちの夢の結晶なのだと。たとえ時代に逆行するように見えようとも、この遺産を守り継ぐことこそが、時計職人としての矜持なのです。
近頃の時計を見ていると、ため息が出てしまう。スマートウォッチだの、デジタル時計だの。電波で時刻を自動修正し、心拍数から睡眠の質まで計測する。確かに便利かもしれない。だが、そこに時計本来の誇りは存在するのだろうか。
私の工房を訪れるお客様の多くは、先代から受け継いだ懐中時計を抱えていらっしゃる。「修理できますか」と、不安そうな表情で尋ねられる。その表情の裏には、現代では部品も技術も失われているのではないかという懸念が垣間見える。しかし、ご安心いただきたい。喜んで修理させていただく。なぜなら、そこには確かな技術と、消えてはならない歴史が刻まれているからだ。
現代の時計産業が抱える問題は、実に根深い。大量生産ラインから流れ出る安価な時計は、もはや使い捨ての消費財と化している。一方で、高級時計は途方もない価格となり、贅沢品の象徴として、その本質から大きく乖離してしまった。かつて存在した「良質な実用時計」という領域が、完全に空洞化しているのだ。
特に気がかりなのは、時計製造における部品の規格化と画一化だ。確かに、互換性のある部品による修理は効率的かもしれない。しかし、それは同時に、個々の時計が持つ個性の喪失を意味している。私の工房には、様々な年代の精密工具が並んでいる。なぜこれほどの工具が必要か。それぞれの時計には、その時代特有の「クセ」があるからだ。画一的な現代の工具では、古い時計の繊細な調整など、できるはずもない。
若い世代の時計に対する認識は、さらに深刻だ。彼らにとって時計とは、単なる「見た目」の問題でしかない。文字盤の色や、ケースのデザインといった表層的な要素にばかり目が向けられ、その内部で営まれている精緻な機械の営みには、まったく関心が向けられていない。時を刻むという崇高な使命が、軽視されているのだ。
ある時計メーカーの技術者から聞いた話がある。現代の機械式時計の製造において、旧来の技術は非効率だとして、次々とデジタル制御の工程に置き換えられているという。精度は向上するかもしれない。だが、職人の手による微調整には、機械では決して真似のできない繊細さがある。それは、まるで生きた時計の鼓動に耳を澄ませながら、その体調を整えていくような作業なのだ。
とはいえ、希望がないわけではない。最近、興味深い変化が起きている。若い職人の中に、デジタル技術と伝統技術の融合を模索する者が現れてきた。彼らは3Dプリンターで試作品を作りながら、最終的な仕上げは伝統的な手法で行う。そこには、新しい時代の職人像が垣間見える。古い技術を単に守るのではなく、現代に適応させながら、その本質を保持しようとする姿勢だ。
また、一般の方々の意識にも、わずかながら変化が見られる。大量生産品への疑問を持ち始め、物の本質的な価値を見直そうとする動きだ。私の工房にも、若い方が訪れるようになった。「なぜ機械式時計は正確に時を刻めるのですか」「なぜオーバーホールが必要なのですか」。そうした本質的な問いを、真摯に投げかけてくれる。
私が未来に望むのは、「本物の時計」という概念の再評価だ。それは必ずしも高価である必要はない。装飾が豪華である必要もない。ましてや、スマートフォンと連携する必要などない。ただ、確かな技術に基づいて、正確に時を刻み続ける。その一点に、真摯に向き合った時計こそが、真の価値を持つのだ。
現在、私は若い職人たちに技術を伝えながら、ある実験を続けている。現代の製造技術と伝統的な手法を組み合わせ、手の届く価格で、しかし確かな品質を持つ時計を作る。これが、未来への一つの答えとなるはずだ。
そして何より、時計の「寿命」について、もっと真剣に考えるべきだ。現代の時計の多くは、修理を前提としない設計だ。壊れたら捨てる。これは、技術の観点からも、環境の観点からも、大きな問題である。時計は、世代を超えて受け継がれるべき存在なのだ。
私の作業台の上で静かに時を刻む懐中時計たちを見ながら、確信している。技術は進歩し、時代は変わる。しかし、本物の価値は必ず受け継がれていく。その信念を胸に、今日も精進を重ねる。未来の時計工房で、若い職人が古い懐中時計を手に取り、その中に込められた先人の思いに触れる日が来ることを願いながら。
次は対談の記録をお楽しみください。

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