今年も3月11日がやってくる。あの日から14年。時が経つのは早い。でも、あの日の記憶は、まるで昨日のことのように鮮明に残っている人も多いだろう。私は震災当時18歳。小学校の校庭で避難する子どもたちの姿をテレビで見ていた。当時は何が起きているのか、本当の意味では理解できていなかった。
被災地を初めて訪れたのは大学1年の時だった。今でも覚えている。バスから降りた瞬間、言葉を失った。テレビで見ていた光景と実際に目にする風景は、まるで別物だった。
「何も…ここまで…破壊しなくても」
私は目の前の光景に恐怖すら感じ、足が震えた。
そこから私の「伝える」という使命が始まった。
忘れられない2011年3月11日
14時46分18秒。
その瞬間、東北地方は揺れ始めた。最初は誰も、この揺れが日本の戦後史を変えることになるとは思っていなかっただろう。
「いつもの地震だと思った」
宮城県石巻市で被災し、母親を亡くした佐藤さん(43)はそう振り返る。しかし、揺れは収まらなかった。むしろ強くなるばかりだった。
マグニチュード9.0。観測史上日本最大の地震だった。揺れは信じられないことに6分近く続いた。体感した人の多くは「終わらない恐怖」と表現する。
私は被災者の方々に何度も聞いた。「地震の前、何か変わったことはありましたか?」と。
「そういえば、数日前から猫が落ち着かなかった」
「海の色が少し違ったような気がした」
「小さな地震が続いていた」
しかし、これらが巨大地震の前兆だと認識できた人はほとんどいない。人間は自然の警告を読み取るのが下手なのかもしれない。それとも、読み取りたくないのか。
津波が奪ったもの
地震よりも恐ろしかったのは津波だった。
「逃げろ!」
防災無線でそう叫んでいた南三陸町の遠藤未希さん。彼女自身が津波の犠牲となった。最後まで町民に避難を呼びかけていたという。彼女の声は今も多くの人の心に残っている。
津波は想像を絶する速さとパワーで街を飲み込んだ。高い所では40メートル以上に達したという。信じられない数字だ。4階建てのビルより高い波が押し寄せたのだ。
「海から黒い壁が迫ってきた」
「車がおもちゃのように流されていった」
「家が積み木のように崩れていった」
生存者たちの証言は、いずれも非現実的な光景を語っている。
私は取材で訪れた時、ある漁師から言われた言葉が忘れられない。
「津波の後、静寂が怖かった。鳥の声も、虫の声も、人の声も、全てが消えた。あんな静けさは経験したことがない」
私には想像が出来ない。
死者・行方不明者は1万8千人以上。しかし、この数字は単なる統計ではない。一人一人が家族であり、友人であり、隣人だった。笑顔があり、夢があり、明日への希望があった。それが一瞬で消えた。
原発事故という二重の悲劇
地震と津波だけでも十分すぎるほど残酷だった。しかし、福島の人々にはさらなる試練が待っていた。福島第一原発の事故だ。
「逃げるときは二度と戻れないと思った」
そう語るのは、双葉町から避難した高橋さん(68)だ。当時、着の身着のままで避難したという。「財布も持たなかった。『すぐに戻れる』と思っていたから」
しかし、14年経った今も、帰還困難区域は残されたままだ。故郷に戻れない人々がいる。避難指示が解除された地域も増えているが、戻る人は少ない。コミュニティは崩壊し、新しい土地での生活が「普通」になりつつある。
原発事故の避難者には、目に見えない差別もあった。「福島から来た」と言うと、距離を置かれた経験を持つ人は少なくない。放射能への無知と恐怖が、さらなる傷を生み出したのだ。
私は福島を訪れるたび、複雑な思いに駆られる。地震と津波の傷跡に加え、人為的な要素が加わった悲劇。これは単なる「天災」ではなく、「人災」の側面も持っている。そこに住む人々の怒りと悲しみは、他の被災地とは少し違う重みを持っているように感じる。
人間の尊厳を守った「支え合い」
災害は人間の最も醜い面と最も美しい面を同時に引き出す。東日本大震災では、間違いなく後者の方が目立った。
海外メディアは日本人の規律正しさに驚いた。略奪や暴動が起きず、整然と列に並ぶ被災者たち。しかし、現地で取材すると、その背景には単なる「規律」ではなく、深い思いやりがあったことがわかる。
「自分より困っている人がいる」
「みんなで乗り越えよう」
そんな言葉を、食料が尽きかけた避難所でも聞くことができた。
ボランティアの数は驚異的だった。延べ157万人以上が被災地を訪れたという。私の大学の友人たちも、春休みや夏休みを利用して瓦礫撤去や炊き出しに参加した。彼らの多くは「自分が得たものの方が大きかった」と言う。確かに、被災地での経験は若者の価値観を大きく変えたようだ。
そんな時、私が聞いた言葉。あれは関西、神戸から来たボランティアの方の言葉。
「俺達は、阪神・淡路大震災で全てを失った。呆然として、途方に暮れてさ。何も希望が見えなかった。そんな時、いち早く駆け付けてくれたのがここ、東北地方の人でさ俺達を励ましてくれて
「「大丈夫!かならず元の生活に戻れる。」
そう言って復興を手伝ってくれた。
地元で取れた米を炊いて握ったお握りを差し出して
「食べな。腹が減っては戦ができぬ」
そう、笑顔でお握りをくれたよ。美味かった。何よりも美味かった。
御礼を言うと、
「困った時はお互い様」
笑顔が忘れられない。だからさ、俺達はやっと阪神・淡路大震災の恩を返せる時が来たとほんと、我先にここへ向かったんだよ」
私は言葉も出なかった…
関西の人は…あの、阪神・淡路大震災に受けた恩を決して忘れてはいなかったのだ。
「恩人を救え!東北の人をすくえ!」
ある友人は震災ボランティアをきっかけに進路を変更し、今は防災関連の仕事に就いている。彼は言う。「自分にできることは小さい。でも、それを積み重ねていくしかない」
動物たちの悲劇
人間だけが被災したわけではない。ペットや家畜、野生動物も大きな被害を受けた。
「避難所にペットを連れていけなかった」
そう悔やむ飼い主は多い。避難所の多くはペットの同伴を認めていなかった。そのため、家に残してきたペットを心配する人々が後を絶たなかった。
立入禁止区域となった福島では、取り残された牛や豚、鶏などが餓死した。その数は推定50万頭以上とも言われる。
一方で、動物救護の活動も広がった。獣医師たちは被災動物の治療に奔走し、保護センターでは飼い主との再会を願って動物たちのケアが続けられた。
私は福島で、原発事故後に立入禁止区域に残された牛を保護している牧場を訪れたことがある。「殺処分の対象だった牛たちを引き取った」と語る牧場主の目は真剣だった。「命は命。人間の都合で簡単に処分していいものではない」
震災は「人間と動物の共生」という課題も私たちに突きつけた。
語り継ぐために
時間の経過とともに、記憶は薄れていく。特に震災を直接経験していない世代にとって、それは「歴史の一ページ」になりつつある。
「風化させてはいけない」
そう語るのは、宮城県石巻市で語り部を務める鈴木さん(72)だ。震災で妻と長男を失った彼は、その経験を若い世代に伝えることを使命としている。
「つらいことを思い出すたび、胸が締め付けられる。でも、伝えなければ。彼らの死を無駄にしたくない」
語り部としての活動は、自らの癒しにもなっているという。「話すことで、少しずつ整理できる」
各地に建てられた震災遺構も、記憶を伝える重要な場所だ。宮城県気仙沼市の「第18共徳丸」(津波で打ち上げられた大型漁船)や、宮城県石巻市の旧門脇小学校など、被災の痕跡が保存されている。
私がこれらの遺構を訪れるたび感じるのは、「言葉では伝えきれない」ということだ。実際に目にすることで初めて理解できる現実がある。
失われた命、残された声
取材を続ける中で、最も心に残るのは遺族の言葉だ。
「娘の名前を呼ぶ人がいなくなるのが怖い」
福島県いわき市で高校生の娘を亡くした母親は、そう打ち明けた。娘の名前が記憶から消えることが、本当の「死」のように感じるという。
「息子の夢だった東京オリンピックを、私が見届けた」
宮城県気仙沼市で中学生の息子を亡くした父親は、コロナ禍で延期された東京オリンピックをテレビで見ながら涙を流したという。「息子が喜んでいると思いたい」
震災遺児の支援活動をしている団体で出会った大学生は、両親を亡くし、祖父母に育てられた。彼女は言う。「震災で学んだことはたくさんある。一番大きいのは、『当たり前』がいつ崩れるかわからないということ」
こうした声の一つ一つに、喪失の痛みと、それでも前に進もうとする強さが感じられる。
私たちはどこに向かうのか
東日本大震災は過去の出来事ではない。今も続いている現実だ。
仮設住宅から災害公営住宅へ移った人々の孤独。
帰還困難区域の将来に悩む自治体。
汚染水処理の問題。
心の傷を抱えたまま成長する子どもたち。
課題は山積している。
一方で、被災地は確実に前進している。「創造的復興」の名のもと、より安全で持続可能な街づくりが進んでいる。高台移転や防潮堤の建設、避難タワーの設置など、ハード面の整備も進んだ。
しかし、最も重要なのは「人」だ。コミュニティの再生、心のケア、記憶の伝承。これらは時間と共に風化しやすく、だからこそ継続的な努力が必要だ。
震災から14年。被災地に通い続ける中で、私は感じている。復興の道のりは長い。しかし、人々は確実に歩みを進めている。それぞれのペースで、それぞれの方法で。
あなたは何を伝えますか
今、この文章を読んでいるあなたに問いたい。
あなたは震災の記憶をどう受け止め、何を次の世代に伝えますか?
単なる悲劇として記憶するだけでは足りない。そこから学び、未来に活かすことが、亡くなった方々への最大の供養になるはずだ。
あの日、海の向こうから押し寄せた巨大な波は、一瞬にして多くの命を奪った。しかし、奪われなかったものもある。人と人とのつながり。助け合いの精神。再生への希望。
3月11日。今年も私たちは黙祷を捧げ、犠牲者を追悼する。そして、彼らが残してくれた教訓を胸に、明日へ向かって歩み続ける。
それが生き残った者の責任だと、私は思う。
(筆者は被災地を定期的に訪れ、震災の記録と記憶の伝承に取り組むルポライターである)
コメント